少し刺激が強すぎて

 新しい職場で働きだしてからのことを思い返してみると、生活の劇的な変化を痛感する。

 

そろそろ「こんな仕事してます」と人に言うのに気恥ずかしさも無くなってきて、自覚にもなってきてるのかと思う反面、まだまだエセ感が強くて、このエセ感はいつ無くなるのだろうと密かにごちてみる。エセなんかでもないし、そこそこしっかりできてるよ!と棟も張って言えるのだが、この胸のつかえは何だろうと日々抱きながら仕事に励んでいる。

 

 電車で小一時間の往来と、自分の頑張りでタイムリミットまでに仕事のクオリティを上げる業務。

 

どちらも自分に合うと思っていたのだけれど、地方の車生活に慣れてしまった後だと、前者には徐々に疲労を蓄積させられているように思う。遅延の度に起因となった人と周囲の人のストレスを勝手に夢想する癖もついた。それが自分のストレスを他人に投影しているだけということも後から気付いた。でも、やっぱり色んな人がいて、みんなそれなりのストレスを抱えているんだとも思えた。

 

色々な人の色々なストレスといえば、後者の仕事にしたってそうだ。色々な人からの原稿だったり、「こうしたい!」という意向だったりは、いわばストレートな他人の感情だ。思いや考えを上手に文章に乗せている人も、そういった発露は上手ではない人もいて、多かれ少なかれそれを直接受け取ることになるのが僕の新しい仕事だ。ビジネスライクではない分、ビジネスライクが上手ではなかった僕には向いている気もしている。が、人の感情に触れることが多い分、少しそれらに中てられて気が滅入ったりもしている気がする。

 

つまり、端的に言うと慣れて少し疲れたのだ。

 

 平日遮二無二働いて、休日をのんびり過ごすのは僕の若い間の理想の働き方だ。それでよかったのだけれど、それをさせてもらえなかったのが前職だ。現状をありがたく思わなければいけないのは百も承知だ。それでも、平日もう少し余裕が欲しいとか、休日もっと楽しく過ごしたいとか、そういう欲望に近い願望は、理想に近づけば近づくほど湧いてくるものなのだと改めて思った。隣の芝は青く見えるし、人は欲深い生き物なのだ。

 

休日、僕には自分に課されたノルマがある。溜めた洗濯物を洗うこと。一週間分の食材を買ってくること。お弁当に入れるための2,3日分のおかずを1品つくること。これでもって、週明けの月曜日に気持ちよく仕事を迎えるのだ。そんなに苦でもないし、楽しんでできるのだけれど、最近は少し億劫で、ぎりぎりにこなしたり、月曜にずれ込んだりしている。別にそれ自体は構わないし、致し方なかったりはするのだけれど、それをこなしていないと、どうにも気持ちが前に向かない。それなのに、今日は凄く腰が重くて、ブログを書くなどの別のことに逃避している。微睡ながらアレしなきゃと思っていたことを翌朝できていない有様を見ると、この上なく自己肯定感が低くなることは千も万も承知なのに逃避しているのだ。

 

 冷蔵庫整理と明日の買い物リストの景気付けと開けた缶チューハイがそろそろ無くなりそうだ。程よく気持ちよくなってきたけれど、多分冷蔵庫の整理はしないで寝ることになるのだろう。洗濯物を畳むだけでも、と言い聞かせるのも眠気が勝ってきてからかもしれない。人と住むとそういうのも少し変わるのかなと思ってみたりして寝床に就くのだろう。スマートスピーカーからちょうどよく流れてきた曲は、今までの自問を繰り返されたようで少し癪に障るけれど、良い曲なので良しとすることにしよう。もっと、現場ネコのような肯定感で生きたい。

 

なんで弾いてみたしか無いんだ!

 

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