迷子のまま

最近、demipoguneというアイドルグループにずっと心を持っていかれている。

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知ったきっかけは、正直に言えばミーハーそのもので、SNSで「オーマイゴ!」という曲が話題になっていたから。流れてきた投稿を何となく再生して、そのまま何となくもう一回再生して、気づいたら他の曲まで漁っていた。よくある沼への落ち方をしている。

 

「オーマイゴ!」がSNSで話題になっていたのは、主にベースラインの話だった。ベースがとにかくえぐい。なのに曲自体はびっくりするほどキャッチーで、そのミスマッチが気持ちいい、という話だ。

 

聴いてみて、ああ、これは確かにそうだと思った。音楽理論はまったくわからないので、何がどうえぐいのかを言葉で説明することはできない。ただ、耳が勝手に音程の低いほうを追いかけてしまう感じと、口が勝手にサビを口ずさんでしまう感じが同時に来る。その二つが喧嘩せずに同居しているのが、とにかく心地よすぎる。理屈がわからなくても気持ちいいものは気持ちいい、というのは音楽のいちばん正しい楽しみ方なのかもしれない。

 

話題になっている側面はたしかにすごいのだけれど、僕が何度も聴き返してしまう理由は、歌詞のほうにもある。

 

「なんてことだ!」が日々起こる毎日。この曲はそういう毎日を歌っていて、それがひたすら自分に刺さっている。大事件というほどではないけれど、小さな「なんてことだ!」が毎日積み重なって、気づけば自分が迷子になっている。最近の自分にとって身に覚えがありすぎた。たぶんずっと幸せとかを探し続けないといけないのだ、人生って。

 

そして、この曲はそこを無理やり明るく塗りつぶしたりしていない。アイドルソングといえば快楽的なハッピーを届けるもの、というイメージがあるけれど、「オーマイゴ!」はただのハッピーを求めているわけではない。困っている自分をちゃんと困っているまま歌っている。その実直さと、どこか懐かしい空気を、聴くたびにひしひしと感じる。

 

 


話題の一曲から入った身として声を大にして言いたいのは、他の曲もすごくいいということだ。

 

歌詞も雰囲気も含めていちばん好きなのは「素敵な日々には」。Aメロ・Bメロからサビへの流れの空気感がいいし、何より歌詞がいい。付け焼き刃のポジティブではなく、ここまでの日々や背景をちゃんと認めたうえで言葉が置かれている感じがする。「素敵な日々」を、何もない真っ白な場所からではなく、積み重ねてきたものの上に描こうとしている。

トゲめく言葉も 優しい君のせいにして
手のひらに傷がふえる
そんなのわかってるから

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ストレートに音を楽しむなら「オラクル」。バンドサウンドとアイドルの融合自体は、今となっては別に珍しいことではないのかもしれない。でも、この規模感でバンドを従えて、地下的な活動を続けるというのは、今の地下アイドルの構造を考えると相当難しいはずだと思う。コストも手間もかかる。それでもそこを追求しているという事実に、邦ロックを愛したまま死ねないでいる老害としては、ただただ感謝の気持ちが湧いてくる。ありがとう、と勝手に思いながら聴いている。

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曲以外のところにも、気になる要素はたくさんある。

 

MVや配信している動画には手作り感があって、メンバーの日常や、普段の気取っていない姿が存分に出ている。これは戦略なのだろうか。ゲーム的な演出が入るのは、アキバの電波ソングへの懐古なのだろうか。MVの白くてドリーミーな雰囲気は、平成回帰の流れの中にあるのだろうか。

 

細かい要素について、ちゃんと考察できるほどの見識は僕にはない。的外れなことを言っている可能性も大いにある。ただ、なんにせよ、そのどれもが同じ方向を向いているように見える。

 

 


今のアイドル文化は、キャッチーでポッピーな雰囲気の中で「kawaii」「脳汁」「ぶち上げ」を基本線にしているように思う。それ自体を否定するつもりはまったくないし、それはそれで楽しいのだろう。

 

でも、demipoguneはそこから一線を画した方向を向いている。ベースのえぐさも、至っていない自分を認める歌詞も、背景を引き受けた「素敵な日々」も、バンドを従える姿勢も、手作り感の残る動画も、白い光のMVも、メインストリームの雰囲気と相反して、全部が「実直さ」と「ノスタルジー」という二つの言葉に集まっていく。

 

ぶち上げてくれるのではなく、そっと隣にいてくれる。忘れていた何かを思い出させてくれる。「なんてことだ!」ってことが起こる毎日の中で、たぶん僕はそういうものを求めているのだと思う。

 

そんなわけですんごいマイブームの話でした。しばらくはこの迷子のまま、demipoguneを聴いてみていようと思う。

 

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和田輪さんが元気そうで嬉しい。

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目次

 自分のブログを読み返すのは、だいたい恥ずかしい。

 「過去の日記を読み返して恥ずかしくなろう」シリーズなんてものをやっているくせに何を言うのかという話だが、あれは十年前の他人の文章だから笑っていられるのである。一昨年の自分は結構恥ずかしい。近すぎる。文体も思考も大して変わっていないのに、微妙に若い。一番いたたまれない距離感であり、たまに面白いことを言ってたら結構悔しくなったりもしてしまう。

 

 そこで思いついた。本文を読まなければいいのではないか。

 というわけで、2018年8月の開設から今日までのタイトルだけを、順番に並べてみることにした。200本以上あるので全部は無理で、だいぶ間引いてある。読んでも中身はあんまりわからない。ただ、僕が八年かけて何を言おうとしていたのかは、たぶんこれで分かりそうである。

 

 以下、めめんと森の目次である。

【2018】

幼女に角煮の煮汁ぶっかけられた話
「悪いね」って謝る人ってそんなに悪いと思っていない
話したい事は山程あるけどなかなか言葉になっちゃくれない
慣れと馴れ
瞬く間も無い位目映く眩しい
斜に構えたい
因果応報

【2019】

好き。という気持ちをモジにしました
アカンサスポータル
入院してきます
寒さは脳裏上のクラッカー ~リッツパーティしたい~
明日、春が来たら僕に会いに来るってマジ!?!?

【2020】

所帯じみるということ
かかとの擦り減らなくなった革靴を眺めて
そっと涙する
有休消化期間に入って
癇癪、自粛、無力、無職
僕の住んでいた街
縛りプレイでわかったこと
社会復帰する目途が立ちました
総て括る
適切な距離感
「何者か」とは何者か。
なんとなくセンシティヴ
少し刺激が強すぎて

【2021】

何
大味の坩堝
最近明確になったこと
筆を温める

【2022】

明けましておめでとうございます

【2023】

2つの胸のつっかえ
最近妙に涙もろくて。
自分を納得させるのに苦労しておりまして。
趣味の配置
タイトル
酒
健康
生活は続く
ふーが
そろそろ
もちろん

【2024】

2024
適度に自堕落でそれなりに丁寧な生活をしたい。
Dream as if you'll live forever. Live as if you'll die today.
ふーが2
(決して)別に大人なんかじゃない
心の行く末に広末
溢れ返る
言葉がでねええええええええええけど、いずれリライトしてええええええええ
主人公
話がしたいよ
"なんか"
毛
if
「限界を決めるな」という言葉
選択
このまま寝落ちしてしまえば
ちゃんと怒られる
吐いた唾と言葉
すこしずつ、少しずつ
言葉
歩
晴れた
食器を洗えば
居、挙、距、虚。
街に行く
日が升る
OSHIGOTO
血を恨む
2023年12月8日
クソみたいな夜を越えて
エクストリーム

【2025】

2025
声がでかい
humor
一期一会の一瞬を輝いて
そういう気分じゃないけれど
嫌になっちゃうという話
やさしいせかい
クセになってんだ、
過剰
1/10(くらい)の狭小な感情
嗄れ
書きたい話したいまとめておきたいと思ったもの
執着
向きと速さ
あくる日
飛行機の思い出
よろず
次に住むなら。シャツを洗えば。
一番になるって大変だし尊い
言わなきゃ許したことになるから
それでも言葉で伝えていくという気持ち
すぐにわすれてしまうから
痩せし男
其れ
酔ってる

【2026】

おめでとうございました
求められるから
平等とは
強くあるために
いっぱい寝て幸せになれたら、みんな苦労なんてしないと思う。
変わるものと変わっていたい
移動中はしょうもない文章をまとめるイマジネーションがダンチ
言葉にできなかった「ありがとう」を、いま伝えてみる
自由とはコインランドリーである
歩け
めめんと森
公認する
それでも誰も疑ってない

 


 

 並べてみて、いくつか気づいたことがある。

 

 まず、僕はずっと「話したい」と言っている。

 2018年の9月に「話したい事は山程あるけどなかなか言葉になっちゃくれない」、2024年の1月に「話がしたいよ」、今年の7月に「言葉にできなかった『ありがとう』を、いま伝えてみる」と書いている。八年かけて、嘆き、懇願し、ようやく実行している。進歩と呼ぶには遅すぎるし、一貫性と呼ぶにはみっともない。でも一応、前には進んでいるらしい。

 

 次に、2022年の「明けましておめでとうございます」である。

 この次に書いた記事が翌年の1月29日なので、一行あけた向こう側は364日後だ。そして今年の1月に、僕は「おめでとうございました」という記事を書いている。四年越しに、同じ挨拶を過去形で回収していた。狙ってやったのなら大したものだが、当然、狙っていない。

 

 あと、これは自分でもびっくりしたのだけれど、2024年1月11日のタイトル、「Dream as if you'll live forever. Live as if you'll die today.」。永遠に生きるつもりで夢を見て、今日死ぬつもりで生きろ。要するにメメント・モリである。ブログ名で日本語の掛詞にして、六年後に英語で言い直して、その二年後に「めめんと森」という記事でようやく自覚している。三回も同じことを言っておきながら、三回とも初めて思いついた顔をしている。人間らしい。

 

 もうひとつ。タイトルの長さが、その時の体力とだいたい一致している。

 開設したばかりの2018年は、やたらと長い。「幼女に角煮の煮汁ぶっかけられた話」とか、元気がありあまっている。それがだんだん短くなって、2021年に「何」で一文字になる。翌2022年は一本しか書いていない。そこから「酒」「健康」「歩」「毛」と一文字が続き、今年になって「歩け」「公認する」と、ようやく述語が戻ってきた。

 

 タイトルというのは記事の顔ではなく、その日の僕の残機なのだと思う。

 ちなみに、この記事のタイトルは「目次」である。二文字。休みも働いて今週もそんなに僕は元気がない。