「何者か」とは何者か。

 雨上がりの夏の夜、家の周りに住む親猫が誰かに呼び掛けるように鳴いていた。日が落ちて少し涼やかになった夜にこだまするその声は風鈴が鳴っているようで、心を穏やかにした。

 

 再就職先の新しい業務は、今までのものとは打って変わって泥臭さも暑苦しさもない。洗練された雰囲気の中に、ただそのことに携わりたくてくすぶっていた自分が参画する。携わりたいことに携われている充実感と、目の前の与えられる業務の目新しさに沸く意欲で、試用期間のもどかしさを忘れながら働いている。少し気恥ずかしさはあるけれど、まるで「何者か」になっているような気持ちすら覚えている。

 

 僕が大学時代に、界隈で少し有名になったバンドのメンバーが先日書いていたつぶやきを思い出した。バンドの大会で優勝して、副賞で貰ったカップ焼きそば1年分をクラスに配ってる時が最も「何者か」になれていた気がする、みたいなつぶやき。全然関わり合いのない僕のような人間ですら、彼らのCDを今も持っていて聴ける状態にあるのだから、きっと「何者か」になっていたことは間違いない。しかし、「何者か」になるのは当人の気持ちが一番に優先されるのかなと、これを読んで思った。

 

 新しい職場は、「何者か」になりたい人たちがお客様だ。彼らが作ったものを手直しして、実際に制作のプロに渡して作品に昇華させてもらう仕事だ。抽象的に書くと「何者か」になっているようにすら感じるが、実際はそんなに美しいものではないらしい。お客様が「何者か」になるためには、作り上げられた作品が世に出回り売れるという決着が必要なようだ。が、今は既に「何者か」である人が作ったものですら売れない世の中のようである。つまり「何者か」になりたいお客様を満足させるのは難しい業界であり、業務であるらしい。

 

そこに夢を抱いて今の業界に飛び込んだわけではないが、「何者か」になりたい気持ちは痛いほど分かるから、来るお客様がギャップを感じる瞬間に胸が少し痛む。決して打つべきではない博打を、「何者か」になれると信じ込んで打ちたくなっている様子に、申し訳なさも覚える。そんな気持ちになって、わかったようなつもりになっている。

 

 もちろん、「何者か」になるのに売れる必要がない人は、作品が出来上がると喜んでくれる。入ってひと月も経っていない自分は1から10までは関わっていないので、まだその喜びに立ち会うことはできていない。が、そこに立ち会うと、また違ったものを感じられるのではと期待している。あわよくば、売れて「何者か」になる人を見たいとも思っているし、そうすることで「何者か」に自分がなれる気もおぼろげにしている。

 

 

 家の窓から外を見下ろしていると、鳴いている親猫の見えないところに、同じ色した子猫が2匹顔を出していた。静寂を孕んだ街並みの中で、チッチッと舌を鳴らしてやる。遠巻きの親猫と陰に潜む子猫たちがその音に反応して身を忍ばせる。また何度か鳴らしてやると、親猫が呼応するようにまた鳴く。その声に反応して子猫が走り出す。ようやく再会できた親猫と子猫は隣家の塀の隙間に消えていった。少し良いことをした気持ちになりながら、「今日は叙情的にブログを書き腐ろう」と思いパソコンに向かった。こんな小さなことでも僕は「何者か」になれている気がした。