書き損じの毛虫

コロナ禍を経て、大学生の学習環境ってどうなっているんだろう。それ以前にPCを持ち歩くのが当たり前になって、講義もPCでノートをとるのが普通になっているんだろうか。講義によっては、PC起動禁止とかにしてる教授もいそう。語学とか思考力を鍛える講義なんかは、PCやスマホを禁止にしたほうが良さそうだし。

 

世の中がまだもう少しアナログだった時代、ノートが価値を持っていた時代の大学生の話をしたい。大学のテストの話になると、よく出てくる過去問、あなたの通っていた大学では出回っていただろうか?

 

うちの大学は、少なくとも僕の生活圏では多くは出回ってなくて、そもそも価値のあるものではなかった。そりゃ何度かは耳にして目にもしたけれど、時事を取り扱った分野が多い学部であったこともあってか、毎年テストはブラッシュアップされて、ほぼ意味をなしていなかった。選択式か文筆式かの、回答形式の確認くらいには役に立っていただろうけれど、そりゃ文筆式が圧倒的マジョリティで、コメダのおまけくらいの腹の足しにしかなっていなかった気がする。

 

 

過去問よりも価値を持っていたのは、講義に出た時のノート。「加藤から聞いたんやけど、君、火曜5限のなんちゃら概論って取ってるんやろ?」と友人の友人、アルカイダくらいの関係値の人から声を掛けられることもしばしばあった。「あるけど、2,3こくらい歯抜けだよ」と答えると「ええねんええねん。歯抜け部分はこっちで探すんで、コピーさせてくれへん?」と返ってくる。

 

手元にない日は日程の約束を取り付け、手元にあった時はその場で貸す。僕が空き講堂か学食でだべっている間に、知らない関西人は学生センターのコピー機で複製して返ってくる。こんな流れで、大学内でだけ価値を持つノートは、半分の価値になって戻ってくる。今考えると、ノートに別に価値はないし、コピーして終わりにするのは非常に合理的だと思う。これが単位取得までの当時の処世術だった。

 

そのあとの流れは二極化する。歯抜けの部分を補填して、「君の分もコピーしといたからあげる~」と後日持ってくるパターンと、その後の音沙汰がないパターンだ。まあ、圧倒的に後者のほうが多くて、それが普通だと思っていたし、前者の場合は少し感動すら覚える。以降のテストの時も手を貸してあげたくなるし、そこから薄い関係を築いたこともあった。歯抜けを補填しない関西人とも、彼の厚かましさから顔見知りになっていた。彼からは以降のテストの時期にもお声がかかるから、前の流れでノートの価値を半分にされていたんだけれども。

 

 

そんな流れを介さず歯抜けの部分を補填する必要があっても、僕はそんなに焦っていなかった。アルバイトの歯抜け部分ともいえる休みに、小さなテスト勉強会が行われるからだ。僕の通っていた大学は2学部の小さな大学で、学部内でも2つの学科にしか分かれない。6,7つぐらいにわかれた学問群のそれぞれに必要単位数が割り振られていて、そこを満たしていく形で履修が行われていく。また、講義のレベルは名前から察しがつくようになっており、飛び級的に履修することはあまりない。それゆえに、同じ学部学科に通う学生は、結局履修する講義が似通ることになる。

 

小さなテスト勉強会は、会合という名をなしているものの、なにか大々的に開催を発信して行われるものではなく、テストの時期が近くなると予定を調整したもの同士で行われる本当に小さいものだった。LINEもダウンロードしている人としていない人がいるような時代で、何かのコミュニティを元に形成されたものではなかった。思い返してみると、発起人は一人の女の子と僕だったし、胴元は僕で最後まで進行していたように思う。

 

大学の講義の中には、壇上で教授が一人芝居を打つ講義ではなく、教授と生徒が円卓を囲んでディスカッションを行うゼミ形式の講義もある。その女の子とは、そのゼミ形式の講義で出会った。講義終わりの流れの中で、あれもこれもと受講しているものの話をし、お互いが単品として教室に鎮座している時は、寄り合うように隣同士になった。

 

「私、計算が伴う講義が苦手で…。経済学部なのにね」と苦笑していたことを覚えている。基礎的な必修の講義でも計算は必要だったろうし、1年生の時からそれなりに苦労していたであろう。それでも彼女は学部内でも真面目な部類であっただろうし、難なく卒業したのだと、思う。

 

気づけば始まっていた勉強会は、主に僕の歯抜けを補填するフェーズと、彼女の計算に付き合うフェーズとに分かれていた。僕はアルバイトに忙殺される真面目系不真面目で、不定期に講義に寝坊していた。午前・午後に関わらず、講義の欠席はおおむね寝坊だった。彼女と寄り合っていた講義で寝坊が発覚した直後は、講義用ノートの真っ白なページ2,3枚を折るルーチンができていた。そのルーチンのおかげで、歯抜け部分をすぐに把握できていて、彼女に見せてもらって理解しつつ、必要事項だけ書き取っていた。歯抜けのキャッチアップは楽勝だった。

 

彼女の計算に付き合うフェーズでは、僕はケータイをいじりながら黙って彼女の悪戦苦闘を見守る。助けてほしいサインをなんらか受け取ると助け舟を出すといったルールだった。

 

彼女は文字の書き損じが多かった。誤字脱字や読み取れない記号、そこかしこにある黒いうねうね。書き間違った文字を竜巻みたいな小さなうねうねで塗りつぶして目玉を二つ上に書き加えて、毛虫みたいなうねうねを照れ隠しで生み出していく。そいつらを数えて笑いあったりしていた。そうして勉強会は2回3回と開催されていた。

 

 

彼女との関係の変化があったのはいつだっただろう。

 

ノートのコピーにひょうひょうと奔走する関西人とそれなりに顔見知りになった頃か、勉強会が僕の友人周りまで大きくなった頃か。その時期から僕はアルバイトに忙殺されるどころか、アルバイター兼学生と肩書きが反対になっていた。いくばくかの年月を経た今でも友人から話題にあがるくらいの時期で、本当に週8で働いていた頃だ。15時にはアルバイト先に移動するために大学を離れて、その後は深夜2,3時まで。日の上るちょっと前の朝朗けを頼りに帰宅して、講義の直前まで眠る。正午直後の3限に空きがあればたまに大学に長居するけれど、それ以外は講義時間しかいない生活を約1年半続けた。部活やサークルには所属していなくて、髭をたくわえた関西人をはじめとした顔見知りには大学にいると珍しがられる存在になった。

 

大学生活が板につく3年時後半の頃には、履修する学問群の補填作業は佳境を迎える。「この学問群はあと2単位で、この学問群が全然足りないから多めに履修しないと…」という計算作業がそこかしこで行われ、次期の講義参加者の編成がなされる。礼賛されしフル単の民は、あと2単位取れば卒業要件を達成するフェーズを迎えていて、何をするでもなく大学にいる人になる。余裕という後光がさして眩しかった。今思うと、多分彼らは就職活動の準備をしたり、教職課程の講義を受講していたのだと思う。やっぱり余裕と心根が違っていたのだろう。

 

アルバイターの僕は正当な交友と謎の交友で、友人も増えていた。3年というそれなりに長い期間で、友人の友人も友人になっている。正式なゼミにも入ってからできた友人もいる。今や大学時代の友人で未だに交友を持っている人は少ないとうそぶくこともあるが、やはりなんだかんだで当時は多かったみたいだ。そういうアルカイダも含めて、テスト期間直前の勉強会をするようになっていた。どこに生息しているかわからない関西人は一度も参加させたことはないが、くだんの彼女はその輪から気づくといなくなっていた。

 

何か僕の言動で失態を演じたのか、単にあの輪の居心地が悪かったのか、あるいは後光を得たのか、結局今もわかっていない。彼女にマメに連絡をとる習慣がなかった僕は、余裕のないアルバイターになり余計に連絡を取らなくなり、輪からいなくなった時にも言いしれない後ろめたさから連絡をとらなかった。その後の就職先のこととか大学生的なイベントを話す機会とかは後に得られたものの、そのタイミングを契機に次第に疎遠になっていった。

 

 

 

 

今年の新しい取り組みとして、少し良いノートとペンを買って、思い思いのことを書きなぐっている。買い出しが必要なもの、買ったら便利そうなもの、ブログのネタにいいかもと思ったもの、テーマに根付いた自問自答。最近は転職したい先の企業のこととか、自己分析的なこととかも記録されている。もともと手帳をつけたい人間であって、去年まではずっとつけていたのだけれど、予定管理はスマホとPCで十分になった今、手帳本来の記録しておきたいことを書き残しておく機能を十分に果たせていないと思い、今年はなんとなくノートにしてみた。

 

これが今のところすこぶる決まりがいい。やっぱり手書きも大事だよなと感じる。が、併用とそこそこの老化で書き損じが増えた。ぐしゃぐしゃと塗りつぶした小さな書き損じがそこかしこにある様を見て、少し昔のことを思い出した。

 

 

 

そういえば、4年生になる直前、留年に片足を突っ込んだ関西人から、ノートのコピーのコピーをもらったことがあった。「これで今までお世話になった分のアレはチャラな」とあこぎな提案を一方的に押し付けてきていた。そのノートには、見覚えのある文字と少なくなった書き損じの毛虫。テストを終えてから思い至って連絡をとれたからこそ、卒業のときのおめでとうは言い合えたことを思い出した。