3連敗のち3連勝して街が光る

時代の手触りって記録として大事だなと思う。後に顧みた時に五感を通してくすぐるものになるはずだから。

 

音楽だと非常に残りやすい。当時の録音技術はもちろん、流行りのコード進行、構成、ピッチ、歌詞で時代を感じることができる。映像作品もそう。でも、小説は文章そのものでしか感じさせることができない。いや、文章でしかないんだから当たり前ではあるんだけれど、音楽・映像作品と比較するとそういう難しさがあるなとふと考えている次第。

 

特殊な言い回しとか、当時の流行語で、その時代を感じさせることはできるけれど、それを知らないと感じられないのだ。直観的に「古さ」を感じられる音そのものとか、映像そのものは、この論点においてそれだけで偉大だと思う。

 

ただ、三者に共通することとして、作ったその時に時代の手触りを残そうとして作っていないってことだよな。副次的に後から付いてくるものなんだよな、たぶん。時間遡行モノの難しいところは、この副次的に付いてきているものを意図的に発露して表現する必要があるところなんだろう。浅瀬をなぞったものだと薄っぺらく感じるだろうだろうし、消費者はそれを敏感に感じ取るのだろう。未来モノがディストピアばかりを描くようになったのは、そういう要素も強そう。栄華はとうに迎え終わった感覚って少なからず世の中に蔓延しているのだなと。

 

過去の手触りを表現したい人間が難しいと感じているところをつらつらと書いた文章でした。最近は歌詞を眺めながら、音楽を拝聴することを生業にしています。スピッツは凄いです。