体内に帯びる熱

今日は外が暖かい。春の陽気を感じられる時期を迎えると、4月に初めて東京に降り立った頃を思い出す。3.11の直後世間が忙しなかった春、一度も足を踏み入れたことのない街に向かうために降り立った東京。故郷は雪が吹きすさんでいたのに、降り立った東京駅は桜が吹きすさんでいた。思い描いたものではなかったけれどそれから過ごすことになる未知の4年間に胸を躍らせて眺めたあの景色を未だに思い出せる。

 

久々に春の陽気にあてられて感じたことがある。それは、外気の変化を感じながら生活することは大事だということ。日光に当たって体内時間を調整するように、外気を感じて体内温度に波を作ることって真っ当に生きるのに必要なのではないかと思う。日光から生じたセロトニンで覚えた感覚なのかもしれないけれど、気持ちの良い気温を感じてそんなことを考えた。

 

こんなことを言うと煙たがられるかもしれないけれど、真冬の雪の中を歩く感覚が懐かしい。しんと引き締まる肌の感覚、耳鼻足先の末端のほのかな痛み。帰宅後にじんわりとホッコリと温まっていく身体と心。もちろんキツい思い出は枚挙にいとまはないけれど、そんな生活を19年間できたからこそ、気温のありがたみを今更感じたりしたのではないだろうか。

 

 

落ち着いたニート生活を送っていて、外気の変化を感じていないとともに、大きく感情が動いていないことに気付いた。いや、映像作品や小説を読んで感情は動かされたりしていたけれど、熱中して感情が動かされた感覚が少なかったのだと思う。熱中、熱気、熱狂。そんな様子を外界に感じるたびに羨ましく思っていたけれど、仕事をすれば解消できることに気付いた。

 

未知のことに挑戦するのは楽しい。熱意を持って取り組める。前の仕事は未知との遭遇が多すぎて、ひたすらにひたすらに濃い日々だった。したいと思う仕事につければきっと同じような刺激を得られると思うし、そこにやりがいを覚えて評価もしてもらえる環境だったら、なんて素敵なことだろうと思う。

 

ジョブホッパー扱いに嫌だななんて感じたりしていたけれど、仕事に対してこの感覚を持っているのだから、あながち間違いではなかったのかもしれない。東京駅で桜の景色を見たときみたいな、外気を感じて心地よくなったときみたいな、ふと体温に熱を帯びる感覚がこのあと待っている。画面の中の熱狂を眺めつつ、なんだか少しわくわくしてきた一日だった。