適度に自堕落でそれなりに丁寧な生活をしたい。

他の人が当たり前にやっているけれど、自分はできていない、というか生活の一部として根付いていないことってあるじゃないですか。例えば、コーヒーを淹れて飲むとか、食事を始める前に洗い物を片付けておくとか。そういうことを一つ一つできることが「丁寧な生活」をできている状態に近づけると思うんです。

 

でも、必要ないから、少なくとも代替できる何かをしているから行っていないわけじゃないですか。コーヒーだったらペットボトルのものを買っているとか、そもそも常飲習慣がないとか。食器洗いについても、飯食い終わった後にまとめてやるとか。そこに小さな一喜一憂って必要なさそうで、とにかく自分の生活において自分で結論付けて行っている行動ってそれが自分にとっては最適なんですよね。

 

ただ、前者と後者で明確に違っていることは、「本当にめんどくさいか考えた時に、単純に考えを改めやすいかどうか」かなと思うんです。

 

コーヒーを淹れて飲むことで安く美味しく飲めるけれど、めんどくささと天秤に掛けてペットボトルのものでいいやと判断しているのが前者。そりゃ食事を始める前に片付いているに越したことはないけれど、まとめてやった方が楽だしと判断しているのが後者。

 

前者はなんか特別な器具とか必要なの?そのまま粉とかどうしたらいいの?そもそも豆を煎ったりするの?という認識。少なくとも自分はそうで、考えてもめんどくささを超えることがない。後者って食前・食後に分けてやったほうが楽だったりしない?分けてやるとしたら、洗うの食器と使ったコップくらいだぜ?って考えると「まあ確かに」と思いません?考えてみるとめんどうだと思っていたことが逆にめんどうを積み重ねていることに気付ける。そもそもめんどうだと思っているんだから、なるべく小分けにしてめんどうに感じないための工夫が必要なんですよね。

 

友人宅にお邪魔すると、一挙手一投足で自分の生活との比較を無意識にしてしまうんですが、昨年明確に感じた部分でした。よくも一息つくために豆を煎るなと、よくも酔って眠いのにマメに洗い物するなと。なんとなくで生活しているとそういうことに気付かないで自分に合った生活しているよなと実感しつつ、洗い物はまとめてやらない気持ちを少し持つに至りました。

 

でもやっぱり、考えた上でその選択をしていることならば、ケチのつけようもないんですけどね。他人に迷惑かけてないだろうし。こういう繰り返しで自分にとって心地よい生活をしていきましょうよ、完璧に丁寧な生活なんてムリっすよというお話でした。