許容社会

受ける前から予言しておくと、安全運転講習って本当に時間の無駄だと思うんです。あれ書類確認するための時間稼ぎだろマジで。見せ方とかに工夫がないから考えを改め直して安全運転しよう!みたいな気持ちにならないんだと思うんです。

 

お役所仕事とかしょうもない無駄なこととか、そういったことにキレて思いのままに文章にするスキルが過去の自分にはあったはずなのに、今はそんなこともできなくなってしまった。社会性?諦め?達観した?と問いかけてもそれらしい答えはでなくて、身の衰えとか落ち着きで片づけてしまうんだよな。こと文章を書く上ではそういった瑞々しさって必要な時もあるんだけれど。

 

とはいっても、人より世の中にイライラしている自覚はあって、歩くの下手な人とか、小さな配慮に欠ける言葉選びとか、ないがしろにされる対応とか、そういったものに小さなイライラを積み重ねている気がする。「みんなそう」と信じて止まないけれど、もしかしてそうではないのか?と思うことも世の中には溢れていて、それもまたイライラを募らせるんだよな。許容しまくった結果、イライラの許容力みたいなものが上がっているのか。そういう意味では、社会性でもあり諦めでもあり達観でもあるのか。

 

判断することそれ自体が大なり小なりストレスである世の中で、ノンストレスな社会ってやっぱりサイコパスのシビュラ的な生き方であって、そんな社会はディストピアでしかなくて絶対に生きたくないなと思ってしまうんだよな。AIを嫌悪する考え方を古い考えとして切り捨てることは簡単だけれど、近い考えについては分かるんだよな。判断して処置することを生業にしている人に、アシストとはいえ判断のお手伝いをするって伝えても、そうそうしっかり伝わるものではないよな。

 

思考があっちゃこっちゃいったけれど、休みをとってストレスフルな免許更新に行くのが大変億劫だというお気持ち表明でした。これすらも許容できる人に僕はなりたい。