気合いが気合いで気合いなのか。

気合い一辺倒の根性論の押し付けでは時代錯誤であると思う一方で、続けないと見えてこない世界を見るためには続けるための気合いは必要であると思う。

 

業務でも趣味でも取り掛かるものすべてが意欲的に取り組めるものではないであろうし、それにとりかかれないと意欲的に取り組めるものにたどり着けないとしたら、その穴を埋めるのはなんとか取り組もうとする気持ち=気合いなんだと思う。いくらSASUKEの3rdステージに挑戦したくても、1stと2ndステージをクリアしないとたどり着けない。気持ちや気持ちと奮い立たせて難関を一つ一つ乗り越えていくのだ。

 

では、我々が「意欲的に取り組めるものにたどり着くため」に乗り越えるべき難関は一体なんなんだろう。明示されていないものでそのフローチャートを作っていくのはとても難しいと思う。例えばダイエット。人々の数だけダイエット法が蔓延る世の中で、自分にあった手法にたどり着くにはとにかく色々と試してみるしかなく、その中には継続が難しいものも、そもそも着手が困難なものもある。だから、パーソナルトレーナーが伴走して筋道を示して目標達成に向けて鼓舞してくれる。

 

そう考えると、業務で「意欲的に取り組めるものにたどり着く」ことは至難の業かもしれない。そもそも意欲的に取り組めるものがなんなのかが分からなければ目標もない。となれば、そこへのフローチャート・筋道なんてないし、誰も示すことができない。そういう意味で、先ずは目標を持ちましょう・立てましょうと口々に言い、目標を立てることが目標になる。そして、無理難題な目標が無理難題に見えないグレイモヤが生まれる。そこかしこが地雷原になるだけだ。

 

目標を立てるのも気合い、達成に向けて行動するのも気合い。でもその先に何があるの?の問いに対して、無邪気な邪気を孕んだ笑顔で「また新しい目標が立てられるよ」などと欲しくない答えを答える人たちの多さに辟易するたび、「誠意は言葉ではなく金額」と毅然と言った福留の偉大さを感じる。

 

今あなたが求めているものはこれだよ、そのためにはコレとこれとアレとあれを成し遂げる必要があって、1つ1つ潰していこうよ。経過は聞いていくし、辛くなったら愚痴ってくれよ。最初は確かに気合いが必要だけれども、潰していくうちに気合いが必要じゃないシーンもあるだろうから、その時は力を抜いていこうよ。最後の一押しにまた気合いが必要だろうからその時のために力を蓄えておこうよ。そしたらきっと求めているものを得ることができると思うよ。

 

そんな言葉をかけているつもりなのだけれど、あの子は昨日も理由のない涙を流して一日を乗り切るための気合いを浪費していた。