書きたいことはあるけれど、なんだか構成を整える脳が働かない。脳のリソースの使い方が無職モードのままなのかなと思ったりもするが、最近までテーマも大まかな構成も決まっていた文章を書いていたのだから、久々にそのへんも考える必要のある脳の使い方だったらしい。
なにより、ブログの編集画面に相対してみて、タイトルをつける労力を省くのは結構重要だと感じた。
タイトルは方向性そのものでそれさえ決まっていれば後は流れで文章はなるようになる。加筆修正は時と場合によって発生するけれど、構成次第だしセンテンス同士のつながりが気持ち悪かったら都度書き換えるので問題はないのだ。と、このブログで何度も書き腐りがちなのは自覚している。
そうこう言っても、50%くらいの出来でも投稿する気持ちで書く、リハビリ的に書いているブログではあるから、えいやーで投稿している時もままある。
無職の間に一時期投稿できなかったのは、このえいやーを何とかできないかなと思ったからだ。
こう思っていたのは、僕が敬愛して止まないテキストサイト管理人のpatoさんの著書『文章で伝えるときいちばん大切なものは、感情である。』(アスコム)を読んで、ブログを書くうえで捨て去りつつあった「書けないという絶望」に気付かされたからだった。
内輪なんてもはやないブログであるのに、内輪ネタを廃すること、単語のイメージを意識することはできていなかった。また、構成のアヤも含めて納得いく形に落とし込むまで文章のパターンを考え抜くことはできていなかった。読み進めるうちに、「書くのはいいけど、それって書いているだけだよ」と言われている気が急にして、少しの間逃げ出すことになった。
逃げ出してあれこれ考えられる余裕があったからということもあるが、一番はこの本にならっていちど頭をひやしてみたところが大きい。裏を返せば、そんなことをする余裕すらあったとも言えた。
というのも、昨年12月から無駄に書いていた結果、ブログを書くという習慣を手に入れていたから、逃げても頭を冷やしてもまた舞い戻ってこれる過信があった。いつぞや今年は100本ブログを書く的なことをのたまっていたけれど、それもかなり間近に迫っているからこその過信があったのだ。
そして、先の書籍、実は自分が直面した絶望の先に「届かないという絶望」と「伝わらないという絶望」という3段構えの絶望があるのだが、幸い?にして「届かないという絶望」は後にも先にもない。多分、おそらく、自分のブログに対するスタンスが変わらない限りは。
はやくこの境地に達してみたいという気持ちもありつつ、そのための処方箋は「それでも書くしかない」というまるでマラソンのような所業なのだから、有酸素運動みたいにそれでも書いていこうと思ってブログの編集画面に向かうことができる。
なにより、この書籍、各章で説かれているノウハウを用いて著者本人が物語を書いていて、最終的にはノウハウを説く地の文がなくなり一編の壮大なお話になる。そのお話が、何年も前から慣れ親しんでいたテキストサイトの香りを漂わせているものだから、全幅の信頼を置いて「それでも書くしかない」を忠実に続けることができるのだ。
そんなことを無職を終えて迎えた初日に、何かに取り憑かれたみたいに考えてます。