人の往来が多い土地を歩いていると、歩くの下手な人がいて驚く。歩きスマホとかは別として、まるで周りに人が歩いていることを感知していないような、左右にふらふらと歩いている人。中途半端に歩行速度も速くて抜かすに抜かせないシチュエーションは、余計にきつい。幅が狭い道なんかでそれをやられたら、それなりに溜まったものではない。

 

今、森絵都さんの『風に舞うビニールシート』を読んでいる。おおよそドラマティックではない人の生活にも選択はあふれていて、そんな小さな選択と生活について描いている短編集だ。中途まで読み進めている中、2つ目の作品を読んでいる時に、なんだか脳裏にこびりついている他の短編のことを思い出した。どちらの作品も保護犬のことを描いていて、設定が似通っているとかそういうものではなく、精神性は似ているなと思っているからこそ思い出したのだと思う。

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ただ、脳裏にある作品を、どこで読んでいたのかまったく思い出せなかった。ここ3,4年で読んだ作品で、本で読んだような画面上で読んだような…判然としない記憶を辿りながらド深夜にもやもやしていた。前後にある作品を思い出して、なんとか辿り着いた作品は昔自分が編集を担当した本だった。

 

珍しい出来事だった。自分の編集した本は、すべて覚えていないながらも記憶に残っていることがほとんどで、著者とのやりとりもほとんどを覚えていることが多い。と思っている。とはいえ、もう当初から幾数年経っているのだ。徐々に記憶も薄れていくものなのだろう。それでも思い出すことができたのは、自分なりに真剣に著者と作品に向き合っていたからだと安直に結論付けたい。

 

そういえば、出版社にいた頃に先輩と著者の話をしたことがある。

なんの苦難も乗り越えず、とんでもなくスムーズに本づくりができた著者の記憶は少し薄れているもんだよなんて話だった。なるほど確かに、この作品の著者とは本当にメールだけのやり取りで作品を完成させたし、驚くほどスムーズだった記憶がある。短編集の編集を行う時は、作品順の助言などをすることが多かったのだが、この方は自分なりの順番も提示してくれていたと思うし、意見をぶつけ合うこともしなかった印象だ。

 

そんなネガティビティバイアスに曝さずに忘れかけていた自分の関わった作品のことを思い出すことができた。そういえば、自分の関わった作品は手元に残しておきたいと思っていたけれど、全然できていなかったことも思い出した。2つの作品で触れた保護犬のことも考えるきっかけになった(色んな関わり方をしている人がいて、ペットショップとか繁殖の問題がたびたび取り沙汰されたりしていているけれど、世の中にないがしろにされている問題だと思う)。

 

おそらく、過去の仕事を見つめ直す作業だのこれからの生活のことを考える作業だのをしているから過去のことを思い出す思考になっているのだと思うけれど、今回読んでいた作品はすこぶる良いきっかけを与えてくれた。そんでもって、過去携わった本の著者に、もう伝えることは難しいのだけれど、心の片隅に残っていてこんな繋がりであなたの作品を思い出したよと伝えたいと思った。とりあえず、新品か中古かわからないが、Amazonの在庫を確認した。カートに入れておいて、近々手元に残す作業をしたい。自分の携わった作品を今更全部買い集めることは難しいのだけれど、これからはそういうこともしたい。とりあえず、当時少しの労力で手に入れられたはずの自分が担当した書籍を今更集めるなんて、自分はつくづく世の中を渡り歩くのが下手だなあと思う。

肩の荷が下りた感じ

何とは言いませんが、肩の荷が下りた感じがすごいです。

 

夜眠れずに少し悩んでもやもやしても今の環境ならと、この生活が始まった頃みたいに昼前まで寝ていた。目覚めは妙に清々しくて、やっぱり日本人は睡眠時間が足りないし、自分はもっと足りていないのだなあと感じた。

 

こういう時に念のため何とは言えない世の中に、やっぱりちょっと嫌だなとも思うけれど、今産み落とした点がいつぞや産み落とした・産み落とす点と繋がってどんな影響を及ぼすのか分からないから余計なことはしないでおこうと思う。誰が小林製薬がこんな状況になるってわかるってんだい。

 

そう考えると、知覚しているものも未知覚のものも含めて、制約というものが世の中には多すぎると思ってしまう。「その制約の中でいかにしていくか」はもちろん考えていくことになるのだけれど、人対人のことは制約を意識しすぎなくていいなんて気付くまでに結構時間がかかると思う。もし、新社会人の方に言葉を送ることができるなら、こんな知見を落としたいなあ。

 

これからの自分に必要なことは、感覚的な知見や仮説を説得力のある事実に落とし込むこと。この年になってからよく耳にするようになった「定性的ではなく定量的な」もので説得を行う動きは、しつかりとできるようにしていきたいと思う。

 

といっても、叙述トリックみたいな定量は詐欺みたいなもんだと思うので、そうではないもの。叙述トリックまではいかないにしても、インフルエンサーだの大物だのモンドセレクションだの最高金賞だの、世の中には本当にはそんなことないのにそれらしく見える箔がいくつもあって、そういうものでもないもの、だ。誠実な事実や仮説を愚直に落とせる人として頑張れるといいなあと思う。

 

 

最近止まっていた筆も、肩の荷のせいで止まっていたと錯覚するくらいには、今回のブログもすごく気楽に書くことができた。読み進められていなかった本も、しうかつノートと化した日々のメモ帳も、当初の気持ちに一旦リセットして進められればいいなと思う。また、結果的に発生しそうな猶予をそれなりに有意義に使うべく、まずはそれなりにしっかり悩んでいきたいと思う。もちろん、何とは言わないけれども。